2010年10月2日。3年前の秋、二日酔いがまだ残るぼんやりとした目に、新聞の訃報記事がとまった。「紅野敏郎氏が死去」。元教育学部国語国文科教授であり、近現代文学研究の第一人者、そしてなにより私の好敵手であった。「好敵手」? 紅野先生の方ではどう思っているか知らないが、私は在学中、そして在学後もずっとそう思っていた。
私が授業を受けていたころ、先生の研究対象は地味な作家が多かったように思う。かつては志賀直哉や谷崎潤一郎らを手がけていたが、私は苛立ちを覚えた。なぜそんな文士ばかり取り上げるのか。志賀直哉はどうした? 谷崎は? 授業では「志」の字も、「谷」の字も出てこなかったように思う。当時の私からしたら(私は国語国文科だったが、まったく文学には不案内であった)、知らない名前ばかりの話で、「こんなことばかり勉強して…」と不満たらたらであった。
学期末にはレポートが課された。先生の著書を読んで感想を書くのだ。著書名は今でも覚えている、というか本棚に今もある。「昭和文学の水脈」。学生である私は、一向に興味を持てなかった。まるで文学史の裏道といった趣じで、メジャーな作家はほとんど出てこない。先生の個人的な趣味につき合わされている感が否めず、私はその苛立ちを原稿用紙にぶちまけた。
夏休みに入る前だった。レポート提出からわずか数日の間で先生はすでに原稿に目を通していたのだ。構内で私を見るなり、夕方研究室に来るようにと告げた。まず、私のことを知っていたことに驚いた。私のクラスだけで60人はいる。言葉を交わしたことも数回しかないはず。それはともかく研究室での第一声は「いやいや君ね。君のような人に読んでもらいたいんだよ」だった。それから私が反論することもできないほど熱く著書で取り上げられた作家を語り始めた。なかなか海面に現れることがない作家たち。そうした細い水脈をたどることが今の自分の進むべき道だ、それこそが日本文学を深く理解することにつながるのだ、と言わんばかりに先生は声を張り上げた。私を怒る風でもなく、ただただ「いやいや君ね」と続いた。
私は著書を読んだときと同じ苛立ちを相変わらず感じていた。「昭和文学の水脈」に現れている作者の姿は、そのまま眼前の先生の姿であった。手に私のレポートを持って、ときどき机に叩きつける。繰り返すが怒っているのではない。熱くなって無意識でそうしているのだ。私はこの温度の差にますます苛立ちを覚えた。私は一冊の本さえまともに読んだことがない、不真面目な学生だった。先生は、文学への愛情を授業でも著書でも爆発させる教授だった。先生と対峙するといつも自分の後ろめたさを感じた。それが私の苛立ちの正体であった。
その後も先生の授業では同じような気持ちだったと思う。1年が過ぎ、選択の授業になってからは先生の授業を取ることはなかった。が、顔を合わせるといつも「いやいや君ね、今何に読んでいるの」と聞いてくる。私は1年の冬頃からふとしたことがきっかけで文学青年になりかけていた。先生の問いかけに段々と真面目に答えることができるようになっていった。やりとりは卒業するまで続いたが、そのころは私も「いやいや広津和郎は…でしょう」なんてやり返すまでになっていた。最後まで先生の研究対象を深く読むことはなかったが…。
その後先生は15年ほど前まで朝日新聞の文芸欄で月1回の連載をしていて、卒業してからはそこで先生のご健在を確かめていた。しかし、いつの間にか紙上でも姿を見なくなった。そして3年前の秋。忘れたころのご訃報だった。「いやいや君ね。君のような人に読んでもらいたいんだよ」。先生の熱のこもった声が突然よみがえった。